長府毛利邸(梅見ごろ2月上旬~)山口梅名所

長府毛利邸

長府毛利邸(アクセス・概要・見どころ・・・)情報を紹介しています。長府毛利邸は山口の梅名所です。長府毛利邸の梅見ごろは例年2月上旬頃~2月中旬頃です。長府毛利邸には門を入って左手にある面積697平方メートルの梅林などに紅梅・白梅・しだれ梅など16本の梅の木が植えられています。ちなみに梅は早咲きで、例年12月下旬頃に開花が始まります。

【長府毛利邸 アクセスマップ】
場所・・・山口県下関市長府惣社町4-10

【長府毛利邸 アクセス・交通】
*JR下関駅からバスの場合、城下町長府バス停(徒歩約10分)

*中国自動車道下関IC(車約20分)

【長府毛利邸 アクセス・駐車場】
駐車場なし

【長府毛利邸 時間(要確認)】
9:00~17:00(受付16:30終了)
12月28日~1月4日は休園

【長府毛利邸 料金(要確認)】
大人210円、小・中学生100円

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【長府毛利邸 歴史・簡単概要】
長府毛利邸(ちょうふもうりてい)は山口県下関市長府惣社町にあります。長府毛利邸は1903年(明治36年)に長門国長府藩第14代(最後)藩主で、子爵・毛利元敏(もうりもととし)が建てました。毛利元敏は1849年(嘉永2年)に長門国長府藩12代藩主・毛利元運(もうりもとゆき)の六男として生まれ、1868年(慶応4年)3月5日に従兄で、長門国長府藩13代藩主・毛利元周(もうりもとちか)が隠居した為に長門国長府藩第14代藩主になりました。1869年(明治2年)に版籍奉還(はんせきほうかん)で知藩事になったが、1871年(明治4年)7月に廃藩置県で免官され、同年に岩倉使節団に同行してアメリカに留学しました。1884年(明治17年)に子爵になり、勲二等・従二位に叙せられ、その後詩歌に優れていたことから宮中御歌所寄人に任じられました。1908年(明治41年)4月2日に長府でなくなり、山口県下関市長府にある曹洞宗(そうとうしゅう)・功山寺(こうざんじ)に弔われました。長府毛利邸には武家屋敷造りの重厚な母屋と白壁に囲まれた日本庭園などがあります。長府毛利邸は明治天皇の行在所(あんざいしょ)として使われました。長府毛利邸には門を入って左手にある面積697平方メートルの梅林などに紅梅・白梅・しだれ梅など16本の梅の木が植えられています。ちなみに梅は早咲きで、例年12月下旬頃に開花が始まります。
下関市(しものせきし)は山口県西部に位置しています。下関市は山口県内で県庁所在地である山口市よりも人口が多く、中国地方でも広島市・岡山市・倉敷市・福山市に次いで5番目に人口が多い都市です。下関市は長門市・美祢市・山陽小野田市、関門海峡を挟んで福岡県の北九州市に接しています。北九州市とは関門トンネルによって結ばれています。下関市は山口県最西端、かつ本州最西端にあり、西側を日本海の響灘(ひびきなだ)・南側を瀬戸内海の周防灘(すおうなだ)に面し、海上に彦島(ひこしま)・角島(つのしま)・蓋井島(ふたおいじま)・六連島(むつれじま)などが浮かんでいます。下関市は西側・南側・東側の三方を海に囲まれ、冬でも比較的温暖な地域だが、北西の季節風によって曇天が多くなります。下関市は古来から陸海の交通の要衝で、室町時代に赤間関(あかまがせき・赤馬関)が大内氏の勘合船貿易の港町として栄え、江戸時代に北前船(西廻り航路)の経由地になり、長崎と並ぶ商港として西の浪華(なにわ)とも言われました。下関市は明治時代以降に九州や大陸(朝鮮半島・中国大陸)を結ぶ交通の中心地として発展しました。また下関市は遠洋漁業の基地にもなり、造船・漁具・水産加工など漁業関連の工業が発展しました。
*参考・・・長府毛利邸(アクセス・歴史・・・)

【長府毛利邸 見どころ・文化財】
長府毛利邸の見どころは長府毛利邸の梅です。長府毛利邸の梅見ごろは例年2月上旬頃~2月中旬頃です。
梅は桜と同じバラ目バラ科サクラ属の落葉樹で、開花の仕組みがよく似ています。梅は花の元となる花芽が前年の夏に形成されて休眠し、秋から冬に気温が低下すると休眠打破され、その後気温が上昇すると開花に向かって生長し、1月頃から開花します。

【長府毛利邸 連絡先(要確認)】
電話番号・・・083-245-8090(長府毛利邸)

【長府毛利邸 備考(御朱印・その他・・・)】
最終更新日:2021年(令和3年)11月

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