弘経寺の桜(桜見ごろ4月上旬頃~)茨城桜名所

弘経寺の桜

弘経寺の桜(アクセス・概要・見どころ・・・)情報を紹介しています。弘経寺の桜は茨城の桜名所です。弘経寺の桜の桜見ごろは例年4月上旬頃~4月中旬頃です。弘経寺の桜にはソメイヨシノ(染井吉野)・シダレザクラ(しだれ桜)・カンヒザクラ(寒緋桜)など桜の木が植えられています。ただイベント・ライトアップは行われないそうです。(要確認)

【弘経寺の桜 アクセスマップ】
場所・・・茨城県常総市豊岡町甲1

【弘経寺の桜 アクセス・交通】
*関東鉄道常総線水海道駅(徒歩50分)または(車約10分)

*常磐自動車道谷和原IC(車約20分)または首都圏中央連絡自動車道常総IC(車約30分)

【弘経寺の桜 アクセス・駐車場】
駐車場あり

【弘経寺の桜 時間(要確認)】
不明

【弘経寺の桜 料金(要確認)】
不明

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【弘経寺の桜 歴史・簡単概要】
弘経寺の桜(ぐぎょうじのさくら)は茨城県常総市豊岡町甲にあります。弘経寺は正式名称を「寿亀山天樹院弘経寺」と言い、室町時代中期の1414年(応永21年)に嘆誉良肇上人(たんよりょうじょうしょうにん)が創建しました。室町時代中期以降に関東浄土宗(じょうどしゅう)の中心寺院として栄え、多くの学僧を輩出した有力寺院でした。しかし戦国時代の1577年(天正5年)に壇越(だんおつ)で、常陸下妻城主・多賀谷氏(たがやし)と小田原・北条氏(ほうじょうし)による合戦の際、多賀谷氏が弘経寺に陣を張ったことから兵火で堂宇が焼失し、第9世・壇誉存把上人は下妻に逃れ、その後戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)の帰依を得て結城に弘経寺を再建しました。その後第10世・照誉了学上人は徳川家康、2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)、3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の徳川三代に帰依され、また徳川家康の孫で、徳川秀忠の子・千姫も深く帰依し、多大な寄進などで再興されました。千姫は落飾した際に弘経寺を菩提寺と定め、境内には千姫御廟(天樹院殿御廟)が建立されています。江戸時代に紫衣(しえ)壇林(だんりん)として十八壇林の中でも上位に置かれる寺院になりました。1906年(明治39年)に千姫の御殿を移築した壮麗な大方丈が焼失しました。弘経寺では江戸時代に顕誉祐天上人が桜を植えたと言われているが、現在は生き残っていません。その後大正時代に75世・順誉大英上人が桜を植えたと言われています。
常総市(じょうそうし)は茨城県南西部に位置しています。常総市は茨城県のつくば市・つくばみらい市・坂東市・下妻市・守谷市・八千代町、千葉県の野田市に接しています。常総市は関東一都六県に広がる関東平野のほぼ中央に位置し、市域の中央を鬼怒川水系の本流で一級河川・鬼怒川(きぬがわ)、東部を利根川水系利根川(とねがわ)の支流で、一級河川・小貝川(こかいがわ)が南北に流れています。常総市では海抜平均10メートルから20メートルの平坦な土地が広がり、東部に市街地・水田、西部に水田・畑・森林・工業団地などがあります。常総市は平安時代中期に北部の石下地区が「新皇」を自称した平将門(たいらのまさかど)の本拠地であったとされています。常総市は江戸時代初期の寛永年間(1624年~1645年)に鬼怒川が一級河川・利根川と直結したことにより、鬼怒川水運で栄えて物資の集散地になりました。また鬼怒川・小貝川近くの低地では新田も開発されました。ちなみに水海道河岸(みつかいどうかし)には六斎市(ろくさいいち)が立ち、江戸から文化も流入して地方文化の拠点となったそうです。常総市では近年工場・住宅が進出し、東京への通勤者も増加しています。
*参考・・・弘経寺の桜(アクセス・歴史・・・)

【弘経寺の桜 見どころ・文化財】
弘経寺の桜の見どころは弘経寺の桜です。弘経寺の桜の桜見ごろは例年4月上旬頃~4月中旬頃です。
桜(染井吉野)は2月1日以降の毎日の最高気温の積算が600度を超えると開花し、800度を超えると満開になるとも言われています。(誤差あり)なお地域によって若干差があるが、開花して5日から1週間ほどで満開になるとも言われています。

【弘経寺の桜 連絡先(要確認)】
電話番号・・・0297-24-0895(弘経寺)

【弘経寺の桜 備考(御朱印・その他・・・)】
最終更新日:2021年(令和3年)11月
茨城桜名所・茨城桜見ごろ

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