原城跡(桜見ごろ3月下旬頃~)長崎桜名所

原城跡
原城跡(アクセス・概要・見どころ・・・)情報を紹介しています。原城跡は長崎の桜名所です。原城跡の桜見ごろは例年3月下旬頃~4月上旬頃です。原城跡にはソメイヨシノ(染井吉野)など約70本の桜の木が植えられています。ただイベント・ライトアップは行われないそうです。(要確認)原城跡は2018年(平成30年)7月に世界遺産の文化遺産に登録されました。
【原城跡 アクセスマップ】
場所・・・長崎県南島原市南有馬町乙
【原城跡 アクセス・交通】
*島原鉄道島原外港駅からバスの場合、原城前バス停(徒歩約13分)
*長崎自動車道諫早IC(車約90分)
【原城跡 アクセス・駐車場】
駐車場あり
【原城跡 時間(要確認)】
自由
【原城跡 料金(要確認)】
無料
【原城跡 歴史・簡単概要】
原城跡(はらじょうせき)は長崎県南島原市南有馬町乙にあります。原城は安土桃山時代の1496年(明応5年)にキリシタン大名(肥前の戦国大名)・有馬貴純(ありまたかずみ)が日野江城(ひのえじょう)の支城として築城を開始し、江戸時代初期の1604年(慶長9年)に完成したと言われています。原城は有明海に張り出し、周囲約4キロの三方を海に面した天然の要害・丘陵に本の丸・二の丸、三の丸・天草丸・出丸などが築かれ、城下にキリシタンの布教施設が置かれ、春城・志自岐原城・日暮城・有馬城などと言われていました。1614年(慶長19年)に肥前国日野江藩主・有馬直純(ありまなおずみ)が日向国延岡藩に移封されると天領になったが、1616年(元和2年)に肥前日野江藩初代藩主・松倉重政(まつくらしげまさ)が日野江城に入城しました。1615年(慶長20年)に一国一城令(いっこくいちじょうれい)が出され、1618年(元和4年)に松倉重政が日野江城が手狭だったことから島原城の築城を開始し、原城から石垣・構築物が転用されて廃城になり、1624年(寛永元年)に島原城が完成しました。松倉重政とその嫡男で、肥前国島原藩2代藩主・松倉勝家(まつくらかついえ)による年貢の過重取り立て・キリシタン弾圧などの悪政により、1637年(寛永14年)に島原の乱(しまばらのらん)が勃発し、原城に約3万7千人が立て籠もりました。初め江戸幕府討伐上使・板倉重昌(いたくらしげまさ)率いる九州諸藩による討伐軍が攻撃したが、1638年(寛永15年)1月1日に板倉重昌は鉄砲の直撃を受けて戦死しました。その後江戸幕府討伐上使で、老中・松平信綱(まつだいらのぶつな)率いる12万以上の討伐軍が攻撃し、1638年(寛永15年)2月28日までに内通者で、南蛮絵師・山田右衛門作(やまだえもさく)を除き、総大将・天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)以下の籠城した老若男女が全員死亡しました。その後江戸幕府は原城跡の石塁などを破却しました。ちなみに1638年(寛永15年)7月19日に松倉勝家が改易になり、江戸時代に切腹ではなく、大名として初めて斬首になりました。1938年(昭和13年)に国の史跡に指定されました。1990年(平成2年)からの発掘調査によって一揆軍の遺骨・鉛の弾丸・クルス(十字架)・ロザリオ・万人坑(まんにんこう)などが出土しました。2017年(平成29年)に続日本100名城(188番)に選定されました。なお原城跡は2018年(平成30年)7月に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産として、世界遺産の文化遺産に登録されました。
*参考・・・原城跡(アクセス・歴史・・・)
【原城跡 見どころ・文化財】
原城跡の見どころは原城跡の桜です。原城跡の桜見ごろは例年3月下旬頃~4月上旬頃です。
桜(染井吉野)は2月1日以降の毎日の最高気温の積算が600度を超えると開花し、800度を超えると満開になるとも言われています。(誤差あり)なお地域によって若干差があるが、開花して5日から1週間ほどで満開になるとも言われています。
【原城跡 連絡先(要確認)】
電話番号・・・0957-73-6632(南島原市観光振興課)
【原城跡 備考(御朱印・その他・・・)】
最終更新日:2021年(令和3年)11月
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