平尾山荘(梅見ごろ2月上旬~)福岡梅名所

平尾山荘・野村望東尼山荘跡

平尾山荘・野村望東尼山荘跡(アクセス・概要・見どころ・・・)情報を紹介しています。平尾山荘は福岡の梅名所です。平尾山荘の梅見ごろは例年2月上旬頃~3月上旬頃です。平尾山荘には約100本の梅の木が植えられています。平尾山荘は幕末の女流歌人・勤王家(きんのうか)である野村望東尼(のむらもとに)が晩年を過ごした閑居地です。

【平尾山荘・野村望東尼山荘跡 アクセスマップ】
場所・・・福岡県福岡市中央区平尾5-2-23

【平尾山荘・野村望東尼山荘跡 アクセス・交通】
*博多駅から西鉄バス(54・59・69番)の場合、山荘通バス停(徒歩約5分)

【平尾山荘・野村望東尼山荘跡 アクセス・駐車場】
駐車場不明

【平尾山荘・野村望東尼山荘跡 時間(要確認)】
9:00~17:00
無休

【平尾山荘・野村望東尼山荘跡 料金(要確認)】
無料

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【平尾山荘・野村望東尼山荘跡 歴史・簡単概要】
平尾山荘(ひらおさんそう)・野村望東尼山荘跡は福岡県福岡市中央区平尾にあります。平尾山荘は幕末の女流歌人・勤王家(きんのうか)である野村望東尼(のむらもとに)が晩年を過ごした閑居地です。野村望東尼は1806年(文化3年)に福岡藩(筑前藩)藩士・浦野重右衛門勝幸(うらのじゅうえもんかつゆき)の三女・モトとして福岡城近くの御厩後(中央区六本松3丁目付近)に生まれ、幼少から和歌・書道を学び、1818年(文政元年)から林五左衛門家に行儀見習いとして仕えました。1822年(文政5年)に福岡藩藩士・郡甚右衛門(こおりじんえもん)に嫁ぐが、半年ほどで離縁になり、実家に戻って和歌・書道や尊皇思想などを学びました。1829年(文政12年)に福岡藩藩士・野村新三郎貞貫(のむらしんざぶろうさだつら)と再婚し、1845年(弘化2年)に連れ子の次男が家督を継ぐと夫が隠居すると平尾山荘に隠棲しました。1859年(安政6年)に夫が亡くなると明光寺住持・元亮巨導禅師のもとで剃髪し、勤王の志を抱き、長州の高杉晋作(たかすぎしんさく)らを平尾山荘に匿って庇護しました。しかし福岡藩で佐幕派(さばくは)が勢力を占めると勤王派が処分され、野村望東尼も捕えられて姫島(糸島郡志摩町)に流されたが、高杉晋作に救い出されて毛利家から厚遇されるが、1867年(慶応3年)11月に三田尻(山口県防府市)で亡くなりました。平尾山荘には約100本の梅の木が植えられています。
福岡市(ふくおかし)は福岡県西部に位置しています。福岡市は福岡県の県庁所在地です。福岡市は九州地方で最も人口が多く、日本国内の市の中でも5番目に人口が多い都市です。福岡市は早良区・東区・博多区・中央区・南区・西区・城南区の7区からなり、福岡県の大野城市・春日市・糸島市・那珂川町・宇美町・粕屋町・志免町・新宮町・久山町、佐賀県の佐賀市・神埼市・吉野ヶ里町に接しています。福岡市は北側を日本海に面しているが、温暖な太平洋側気候の九州型気候区に属しています。福岡市では旧石器が出土し、縄文時代早期の竪穴住居遺跡があり、古くから人が住んでいたとも言われています。福岡市は古来から天然の良港で、地理的に中国大陸・朝鮮半島に近いこともあり、飛鳥時代から遣隋使(けんずいし)や遣唐使(けんとうし)を派遣したり、中国大陸・朝鮮半島と交易したりして発展しました。中世には商人による合議制で治められた日本初の自治都市が形成され、江戸時代初期の1601年(慶長6年)に黒田氏が福岡城を築城するとその城下町として発展しました。明治維新後の1876年(明治9年)に西側の福岡と東側の博多は統合され、福博(ふくはく)となったが、1889年(明治22年)に福岡と改められました。
*参考・・・平尾山荘・野村望東尼山荘跡(アクセス・歴史・・・)

【平尾山荘・野村望東尼山荘跡 見どころ・文化財】
平尾山荘の見どころは平尾山荘の梅です。平尾山荘の梅見ごろは例年2月上旬頃~3月上旬頃です。
梅は桜と同じバラ目バラ科サクラ属の落葉樹で、開花の仕組みがよく似ています。梅は花の元となる花芽が前年の夏に形成されて休眠し、秋から冬に気温が低下すると休眠打破され、その後気温が上昇すると開花に向かって生長し、1月頃から開花します。

【平尾山荘・野村望東尼山荘跡 連絡先(要確認)】
電話番号・・・092-711-4666(教育委員会文化財整備課)

【平尾山荘・野村望東尼山荘跡 備考(御朱印・その他・・・)】
最終更新日:2021年(令和3年)11月

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