龍城公園(桜見ごろ4月上旬頃)栃木桜名所

龍城公園・大田原城跡

龍城公園・大田原城跡(アクセス・概要・見どころ・・・)情報を紹介しています。龍城公園は栃木の桜名所です。龍城公園の桜見ごろは例年4月上旬頃です。龍城公園には本丸跡の広場などにソメイヨシノ(染井吉野)など約400本の桜の木が桜の木が植えられ、大田原市さくら祭・ライトアップが行われています。(要確認)ツツジも植えられています。

【龍城公園・大田原城跡 アクセスマップ】
場所・・・栃木県大田原市城山2-2

【龍城公園・大田原城跡 アクセス・交通】
*JR東北本線西那須野駅から関東バスの場合、龍城公園前バス停(徒歩すぐ)

*東北自動車道西那須野塩原IC(車約25分)

【龍城公園・大田原城跡 アクセス・駐車場】
駐車場あり

【龍城公園・大田原城跡 時間(要確認)】
自由

【龍城公園・大田原城跡 料金(要確認)】
無料

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【龍城公園・大田原城跡 歴史・簡単概要】
龍城公園(りゅうじょうこうえん)は栃木県大田原市城山にあります。龍城公園は大田原城(おおたわらじょう)跡に整備された公園です。大田原城は戦国時代(室町時代後期)の1543年(天文12年)または1545年(天文14年)に大田原資清(おおたわらすけきよ)が築城し、本拠だった町島(まちじま)の水口居館(みなくちきょかん)から移ったと言われます。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)前に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が上杉景勝(うえすぎかげかつ)の挙兵に備えて急遽大田原城の修理を命じました。江戸時代前期の1627年(寛永4年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が奥州への備えとして常時玄米千石を大田原城に貯蔵させました。江戸時代後期の1825年(文政8年)に火災で焼失したが、翌1826年(文政9年)に再建されました。幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)で新政府軍が会津攻めの拠点とし、たことから会津藩の攻撃を受けたが、火薬庫の爆発によって落城を免れました。1872年(明治5年)に兵部省に引き渡されて破却され、1886年(明治19年)に大蔵大臣・渡辺国武(わたなべくにたけ)の所有となったが、1937年(昭和12年)に渡辺国武の子で、司法大臣・渡辺千冬(わたなべちふゆ)が大田原町に寄贈し、その後龍城公園に整備されました。
大田原市(おおたわらし)は栃木県北東部に位置しています。大田原市は那須塩原市・さくら市・矢板市・那須町・那珂川町、茨城県の大子町、福島県の棚倉町に接しています。大田原市は中西部が那須五峰から広がる那須野が原(なすのがはら)の扇状地で、那須岳山麓を源とし、日本有数の鮎の漁獲量を誇る清流で一級河川・那珂川や那珂川水系の一級河川・箒川(ほうきがわ)、そして箒川の支流・蛇尾川(さびがわ)などが流れ、東部に八溝山地(やみぞさんち)の山々が連なっています。大田原市は平安時代に佐久山などに那須一族の荘園が開かれ、平安時代末期に弓の名手・那須与一が那須氏の居城・神田城(那須郡那珂川町)で生まれたとも言われています。ちなみに大田原市には那須氏の菩提寺で、那須与一の墓所とされる玄性寺(げんしょうじ)が再建されています。大田原市は佐久山が近世陣屋町となり、宿場町として栄えました。また大田原は中世以来大田原氏の城下町になり、江戸時代に奥州街道の宿場町・市場町として発展しました。大田原市は那須野が原が穀倉地帯になり、農業が盛んに行われています。ちなみに水稲は栃木県内で生産量が1番多く、軟白ネギ・イチゴなども積極的に栽培されているそうです。
*参考・・・龍城公園・大田原城跡(アクセス・歴史・・・)

【龍城公園・大田原城跡 見どころ・文化財】
龍城公園の見どころは龍城公園の桜です。龍城公園の桜見ごろは例年4月上旬頃です。
桜(染井吉野)は2月1日以降の毎日の最高気温の積算が600度を超えると開花し、800度を超えると満開になるとも言われています。(誤差あり)なお地域によって若干差があるが、開花して5日から1週間ほどで満開になるとも言われています。

【龍城公園・大田原城跡 連絡先(要確認)】
電話番号・・・0287-54-1110(大田原市観光協会)

【龍城公園・大田原城跡 備考(御朱印・その他・・・)】
最終更新日:2021年(令和3年)11月
栃木桜名所・栃木桜見ごろ

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