わに塚のサクラ(桜見ごろ3月下旬頃~)山梨桜名所
わに塚のサクラ
わに塚のサクラ(アクセス・概要・見どころ・・・)情報を紹介しています。わに塚のサクラは山梨の桜名所です。わに塚のサクラの桜見ごろは例年3月下旬頃~4月上旬頃です。わに塚のサクラは推定樹齢約330年とも言われるエドヒガンザクラの一本桜です。わに塚のサクラは樹高約17メートル・幹周り約3.6メートルで、枝張約23メートルです。ライトアップが行われています。(要確認)
【わに塚のサクラ アクセスマップ】
場所・・・山梨県韮崎市神山町北宮地624
【わに塚のサクラ アクセス・交通】
*JR韮崎駅から韮崎市民バス・円野線上円井上行きの場合、武田八幡入口バス停(徒歩約5分)
*中央自動車道韮崎IC(車約15分)
【わに塚のサクラ アクセス・駐車場】
駐車場あり
【わに塚のサクラ 時間(要確認)】
自由
【わに塚のサクラ 料金(要確認)】
無料
【わに塚のサクラ 歴史・簡単概要】
わに塚のサクラ(わにづかのさくら)・わに塚の桜は山梨県韮崎市神山町北宮地に植えられています。わに塚は山梨県と長野県の県境にある標高約2,685メートルの鋸岳(のこぎりだけ)を源とし、日本三大急流に数えられる富士川(ふじがわ)上流部である釜無川(かまなしがわ)右岸(左岸)で、韮崎段丘のほぼ中央のこんもりと盛り上がった場所にあります。わに塚は「甲斐国志(かいこくし)・1814年(文化11年)成立」に「芝間十五間二十間塚ノ形神前ニカカル鰐口ニ似タルヲ以テ」と記され、仏具の一種である鰐口(わにぐち)の形から名付けられたと言われています。また口碑によると第12代・景行天皇の皇子で、第14代・仲哀天皇の父である日本武尊(やまとたける)の王子・武田王(たけだのきみ)がこの地を治め、埋葬された場所から「王仁塚」と言われるようになったとも言われています。更に前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)に由来するなど諸説があります。わに塚のサクラは推定樹齢約330年とも言われるエドヒガンザクラ(江戸彼岸桜)の一本桜です。わに塚のサクラは樹高約17メートル・幹周り約3.6メートルで、枝張約23メートルです。わに塚のサクラは天候が良ければ八ヶ岳と一緒に見られ、残雪の山々とのコントラストが美しいと言われています。わに塚のサクラはかつて郵政省「さくらメール」のポスターや2004年の「桜咲くまで」などテレビドラマのタイトルバックに使用されました。なおわに塚のサクラは1989年(平成元年)に韮崎市の天然記念物に指定されました。
韮崎市(にらさきし)は山梨県北部に位置しています。韮崎市の名称は近世の韮崎宿に由来し、韮崎はにらの葉のように長く細く連綿と突き出た部分を意味するとも言われています。韮崎市は南アルプス市・北杜市・甲斐市に接しています。韮崎市は甲府盆地の北西端に位置し、山梨県と長野県の県境にある標高約2,685メートルの鋸岳(のこぎりだけ)を源とし、日本三大急流に数えられる富士川の上流である釜無川(かまなしがわ)と八ヶ岳方面から流れる富士川水系の一級河川・塩川の合流点付近にあります。韮崎市は平安時代後期に源義清・源清光親子が常陸国から配流されて入府し、源清光の次男・武田信義(たけだのぶよし)が武田氏を称して武田氏発祥の地となり、戦国時代には甲斐武田家第20代当主・武田勝頼が躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)から新府城に移住しました。韮崎市は江戸時代に甲州街道の宿場町・富士川水運の河港として発展し、塩・海産物・米など中継基地になりました。韮崎市は現在稲作・果樹・野菜栽培などが盛んに行われています。また南アルプス登山の玄関口にもなっています。
*参考・・・わに塚のサクラ(アクセス・歴史・・・)
【わに塚のサクラ 見どころ・文化財】
わに塚のサクラの見どころはわに塚のサクラです。わに塚のサクラの桜見ごろは例年3月下旬頃~4月上旬頃です。
桜(染井吉野)は2月1日以降の毎日の最高気温の積算が600度を超えると開花し、800度を超えると満開になるとも言われています。(誤差あり)なお地域によって若干差があるが、開花して5日から1週間ほどで満開になるとも言われています。
【わに塚のサクラ 連絡先(要確認)】
電話番号・・・0551-22-1991(韮崎市観光協会)
【わに塚のサクラ 備考(御朱印・その他・・・)】
最終更新日:2021年(令和3年)11月
●山梨桜名所・山梨桜見ごろ
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