御調八幡宮(桜見ごろ3月下旬頃~)広島桜名所

御調八幡宮

御調八幡宮(アクセス・概要・見どころ・・・)情報を紹介しています。御調八幡宮は広島の桜名所です。御調八幡宮の桜見ごろは例年3月下旬頃~4月上旬頃です。御調八幡宮には200年以上のシダレザクラ(枝垂桜)・10本のエドヒガン(江戸彼岸)の古木・ソメイヨシノ(染井吉野)・ヤマザクラ(山桜)などの桜の木が植えられ、春季例祭(桜花祭)が行われます。

【御調八幡宮 アクセスマップ】
場所・・・広島県三原市八幡町宮内13

【御調八幡宮 アクセス・交通】
*JR三原駅からバスの場合、八幡神社前バス停(徒歩約5分)

*山陽道三原久井IC(車約5分)

【御調八幡宮 アクセス・駐車場】
駐車場あり

【御調八幡宮 時間(要確認)】
自由

【御調八幡宮 料金(要確認)】
無料

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【御調八幡宮 歴史・簡単概要】
御調八幡宮(みつきはちまんぐう)は広島県三原市八幡町宮内にあります。御調八幡宮は社伝によると弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が天皇位を得ようとした769年(神護景雲3年)の宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん・道鏡事件)によって流罪になった和気清麻呂(わけのきよまろ)の姉・和気広虫(わけのひろむし・藤野別広虫女)が八幡神を祀ったのが始まりとも言われています。宇佐八幡宮神託事件では宇佐八幡宮に赴いて弓削道鏡の野望を挫って皇統を守った和気清麻呂(わけのきよまろ)が大隅国に流され、和気広虫も備後国に流されました。和気広虫は心身を清める斉戒沐浴(さいかいもくよく)し、円鏡をご神体として宇佐八幡大神を勧請し、弟・和気清麻呂が無実の罪を明らかにする雪冤(せつえん)を祈願したと言われています。877年(宝亀8年)に藤原百川(ふじわらのももかわ)が社殿を建立して社領に与えました。1158年(保元3年)に京都・石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の別宮になり、八幡庄の鎮守神・備後総鎮護の神社として崇信されました。天正年間(1573年~1593年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が三原城に滞在中に参拝し、桜を手植えしたと言われています。江戸時代に広島藩主・浅野家や三原城主・浅野家が200年以上のシダレザクラ(枝垂桜)・10本のエドヒガン(江戸彼岸)の古木を植えたとも言われてインす。なお御調八幡宮では境内を流れる八幡川がやはた川自然公園として整備されています。
三原市(みはらし)は広島県南部に位置しています。三原市は広島県の尾道市・竹原市・東広島市・世羅町、海を隔てて愛媛県の今治市に接しています。三原市は北部に吉備高原の高原地帯が広がり、西部に丘陵地があり、南側を瀬戸内海に面しています。三原市は中心市街地は標高約992メートルの鷹ノ巣山(たかのすやま)を源とする沼田川水系の本流で二級河川・沼田川による三角州に位置し、大半は埋立地だそうです。三原市は古くから山陽道の交通の要地で、1582年(天正10年)に小早川隆景(こばやかわたかかげ)が三原湾に浮き城とも言われる三原城を築城し、その城下町を整備しました。その後福島正則(ふくしままさのり)が領主として広島城に入城し、三原城は支城となったが、福島氏が改易されると安芸広島藩初代藩主・浅野長晟(あさのながあきら)の筆頭家老・浅野忠吉(あさのただよし)を城代とする広島藩の支城になりました。三原市は江戸時代に山陽道の宿場町として栄え、塩の産地としても知られました。三原市は1920年代後半以降に大企業の工場が進出し、化学繊維を中心とした工業都市に変り、1963年(昭和38年)には備後工業整備特別地域に指定され、繊維・セメント・産業機械などの工業が発達しました。また三原市は尾道糸崎港・三原港が重要港湾とされる港湾都市にも発展しました。
*参考・・・御調八幡宮(アクセス・歴史・・・)

【御調八幡宮 見どころ・文化財】
御調八幡宮の見どころは御調八幡宮の桜です。御調八幡宮の桜見ごろは例年3月下旬頃~4月上旬頃です。
桜(染井吉野)は2月1日以降の毎日の最高気温の積算が600度を超えると開花し、800度を超えると満開になるとも言われています。(誤差あり)なお地域によって若干差があるが、開花して5日から1週間ほどで満開になるとも言われています。

【御調八幡宮 連絡先(要確認)】
電話番号・・・0848-65-8652(御調八幡宮)

【御調八幡宮 備考(御朱印・その他・・・)】
最終更新日:2021年(令和3年)11月
広島桜名所・広島桜見ごろ

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