龍福寺(梅見ごろ2月上旬~)山口梅名所

龍福寺

龍福寺(アクセス・概要・見どころ・・・)情報を紹介しています。龍福寺は山口の梅名所です。龍福寺の梅見ごろは例年2月上旬頃~3月中旬頃からです。龍福寺では山門から本堂に続く参道や駐車場近くに紅梅・白梅・しだれ梅など約50本の梅の木が植えられています。資料館には大内義隆画像(山口県有形文化財)3枚などが収蔵されています。

【龍福寺 アクセスマップ】
場所・・・山口県山口市大殿大路119番地

【龍福寺 アクセス・交通】
*上山口駅(徒歩約9分)

*中国自動車道小郡IC(車約20分)

【龍福寺 アクセス・駐車場】
駐車場あり

【龍福寺 時間(要確認)】
資料館
9:00~17:00

【龍福寺 料金(要確認)】
資料館
高校生以上200円、小・中学生150円

【龍福寺 歴史・簡単概要】
龍福寺(りゅうふくじ)は山口県山口市大殿大路にあります。龍福寺は鎌倉時代前期の1206年(建永元年)に周防大内氏第18代当主・大内満盛(おおうちみつもり)が白石に創建した臨済宗(りんざいしゅ)の宝珠山瑞雲寺(ほうじゅさんずいうんじ)が起源です。南北朝時代の1336年(延元元年・ 建武3年)に大内弘直(おおうち ろなお)が再建し、菩提寺にしました。室町時代中期の1454年(享徳3年)に大内氏第13代当主・大内教弘(おおうちのりひろ)が雪心和尚を中興開山に曹洞宗(そうとうしゅう)に改め、山号・寺号も瑞雲山龍福寺に改めました。戦国時代(室町時代後期)の1551年(天文20年)に家臣・陶晴賢(すえはるかた)が主君である大内氏第16代当主・大内義隆(おおうちよしたか)に対する大寧寺の変(たいねいじのへん)で焼失し、1557年(弘治3年)に毛利氏第13代当主・毛利隆元(もうりたかもと)が第105代・後奈良天皇(ごならてんのう)の綸旨により、自害した大内義隆の菩提寺として大内氏館の跡地である現在の場所に移して再興しました。1881年(明治14年)に火災で禅堂・山門以外の伽藍を焼失し、1883年(明治16年)に大内氏の氏寺であった氷上山興隆寺(ひかみやまこうりゅうじ)の釈迦堂を移築して本堂(重要文化財)が再建されました。龍福寺では山門から本堂に続く参道や駐車場近くに紅梅・白梅・しだれ梅など約50本の梅の木が植えられています。資料館には大内義隆画像(山口県有形文化財)3枚などが収蔵されています。
山口市(やまぐちし)は山口県中央部に位置しています。山口市は山口県の県庁所在地です。山口市は山口県の周南市・美祢市・宇部市・防府市・萩市、島根県の津和野町・吉賀町に接しています。山口市は山口市宮野上の標高約100メートルの坂堂峠(さかどうとうげ)付近を源とする二級河川・椹野川(ふしのがわ)中流域の山口盆地に位置し、南北に長い市域の南部を瀬戸内海の山口湾に面し、椹野川・佐波川(さばがわ)・阿武川(あぶがわ)などが流れています。山口市は市域の北部が中国山地南西端で寒暖の差が激しく、中部・南部が瀬戸内海式気候に属して比較的温暖です。山口市は南北朝時代の1360年(延文5年・正平15年)に大内氏第9代当主・大内弘世(おおうちひろよ)が周防国を平定し、京都を模して城下町を整備し、日明貿易によって栄えました。その後応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の際に京都を逃れてきた文化人を受け入れ、大内文化(おおうちぶんか)が栄えて「西の京」とも言われました。山口市では1863年(文久9年)に長州藩第13代藩主・毛利敬親(もうりたかちか)が山口移鎮(やまぐちいちん)によって天守の無い平城・山口城に藩庁を移し、明治維新後に山口県庁に移行しました。
*参考・・・龍福寺(アクセス・歴史・・・)

【龍福寺 見どころ・文化財】
龍福寺の見どころは龍福寺の梅です。龍福寺の梅見ごろは例年2月上旬頃~3月中旬頃です。
梅は桜と同じバラ目バラ科サクラ属の落葉樹で、開花の仕組みがよく似ています。梅は花の元となる花芽が前年の夏に形成されて休眠し、秋から冬に気温が低下すると休眠打破され、その後気温が上昇すると開花に向かって生長し、1月頃から開花します。

【龍福寺 連絡先(要確認)】
電話番号・・・083-922-1009(龍福寺)

【龍福寺 備考(御朱印・その他・・・)】
最終更新日:2021年(令和3年)11月

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