松下村塾(アクセス・歴史・・・)・世界遺産

松下村塾

松下村塾(アクセス・概要・見どころ・・・)情報を紹介しています。松下村塾は江戸時代末期から明治時代に活躍する人材を多く輩出し、高杉晋作(たかすぎしんさく)・久坂玄瑞(くさかげんずい)は「松下村塾の双璧」と言われました。また吉田稔麿(よしだとしまろ)を加えて「松陰門下の三秀」、更に入江九一(いりえくいち)を加えて「松下村塾の四天王」と言われました。

【松下村塾 アクセスマップ】
場所・・・山口県萩市椿東1537(松陰神社敷地内)

【松下村塾 アクセス・交通】
*JR山陰本線・東萩駅(徒歩約10分)
*JR山陰本線・東萩駅から萩循環まぁーるバス(東回りコース)の場合、松陰神社前バス停(徒歩約1分)

【松下村塾 アクセス・駐車場】
駐車場あり

【松下村塾 時間(要確認)】
外観のみ見学自由

【松下村塾 料金(要確認)】
外観のみ無料

【松下村塾 歴史・簡単概要】
松下村塾(しょうかそんじゅく)は江戸時代末期に萩城下の松本村に開かれた私塾です。松下村塾は1842年(天保13年)に山鹿流兵学師範で、長州藩士・吉田松陰(よしだしょういん)の叔父で、長州藩士・玉木文之進(たまきぶんのしん)が自宅に八畳一間の私塾を開き、松下村塾と名付けたのが始まりです。松陰も少年の頃に学び、授業中に顔にとまった蚊を払って殴られたとも言われています。その後松陰の外伯父・久保五郎左衛門(くぼごろうざえもん)が引き継ぎ、1857年(安政4年)の28歳の時に松陰が引き継いで主宰するようになりました。ちなみに吉田松陰は1830年(文政13年)に長州藩士・杉常道(すぎつねみち)の次男として生まれ、1834年(天保5年)に叔父で、山鹿流兵学師範・吉田大助の養子になったが、1835年(天保6年)に大助が亡くなったことから玉木文之進から松下村塾で学ぶようになり、9歳の時に日本三大学府の一つと称された長州藩の藩校・明倫館(めいりんかん)の兵学師範になりました。その後アヘン戦争で清(中国)が大敗したことを知って、九州遊学後に江戸に出て佐久間象山(さくましょうざん)などに師事し、1854年(嘉永7年)に黒船ポーハタン号に密航を試みたことで国許蟄居になって野山獄に幽囚され、1855年(安政2年)に出獄を許され、1857年(安政4年)には松下村塾を引き継ぎました。松下村塾では身分・階級を問わずに塾生を受け入れ、久坂玄瑞・高杉晋作・伊藤博文・山縣有朋・吉田稔麿・入江九一・前原一誠・品川弥二郎・山田顕義・野村靖・渡辺蒿蔵・河北義次郎などが松陰から学びました。しかし1858年(安政5年)に松陰が野山獄に再投獄されると塾生の多くが離れて中断し、1866年(慶応2年)に再開されました。松陰は江戸に送られて1859年(安政6年)に伝馬町牢屋敷で斬首刑に処されました。その後1871年(明治4年)に玉木文之進が松下村塾を自宅に移したが、1876年(明治9年)の萩の乱で元塾生が反乱の罪に問われたことに責任を感じた文之進が切腹し、再度中断しました。1880年(明治13年)頃に松陰の兄・杉民治(すぎみんじ)が再開したが、1892年(明治25年)頃に杉が老年を理由に閉塾しました。なお松下村塾は1922年(大正11年)に国の史跡に指定されました。
松下村塾は2015年(平成27年)に世界遺産条約により、ユネスコ世界文化遺産(明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業)のひとつに登録されました。
*参考・・・松下村塾(アクセス・歴史・・・)松下村塾(アクセス・歴史・・・)wikipedia

【松下村塾 見どころ・文化財】
松下村塾の見どころは吉田松陰が学び、教えた建物です。建物は面積約50平方メートルの平屋建て・木造瓦葺きの小舎です。建物は当初からあった8畳1室と松陰が塾生とともに増築した4畳半1室・3畳2室・土間1坪・中2階付きの部分から成っています。8畳1室は講義室で、松陰の石膏像と肖像画、机が置かれています。なお吉田松陰を主祭神に祀る松陰神社も見どころです。

【松下村塾 連絡先(要確認)】
電話番号・・・0838-25-3380(萩市世界文化遺産課)

【松下村塾 備考(御朱印・その他・・・)】
最終更新日:2017年(平成29年)4月

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