東行庵(梅見ごろ2月中旬~)山口梅名所

東行庵

東行庵(アクセス・概要・見どころ・・・)情報を紹介しています。東行庵は山口の梅名所です。東行庵の梅見ごろは例年2月中旬頃~3月中旬頃からです。東行庵には高杉晋作が愛した梅の木約200本(紅梅・白梅)が植えられています。ちなみに高杉晋作は梅を愛し、長男に梅之進と名付け、愛妾・おうのに銘「梅處」の自作の茶杓を贈りました。

【東行庵 アクセスマップ】
場所・・・山口県下関市吉田町1184

【東行庵 アクセス・交通】
*JR小月駅からサンデンバス・秋芳洞方面行きの場合、東行庵入口バス停(徒歩約8分)

*中国自動車道小月IC(車約5キロ・車約5分)または美祢西IC(車約10キロ)
*山陽道埴生IC(車約7キロ)

【東行庵 アクセス・駐車場】
駐車場あり

【東行庵 時間(要確認)】
自由

下関市立東行記念館
9:30~17:00(受付16:30終了)

【東行庵 料金(要確認)】
無料

下関市立東行記念館
大人300円、大学生200円

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【東行庵 歴史・簡単概要】
東行庵(とうぎょうあん)は山口県下関市吉田町にあります。東行庵は1884年(明治17年)に維新の革命児・高杉晋作(たかすぎしんさく)の霊位礼拝堂として創建されました。この地は幕末(江戸時代末期)頃に奇兵隊(きへいたい)軍監・山縣有朋(やまがたありとも・山縣狂介)が清水山山麓に草庵を建て、無鄰菴(むりんあん)と名付けた場所でした。1867年(慶応3年)4月14日に高杉晋作が亡くなり、長州藩第14代(最後)藩主・毛利元徳(もうりもとのり)の長男で、毛利第29代当主・毛利元昭(もうりもとあきら)や伊藤博文(いとうひろぶみ)・井上馨(いのうえかおる)らの寄付によって東行庵が建てられ、高杉晋作の遺言によって奇兵隊の本拠に近い東行庵に葬られました。初代庵主は高杉晋作の愛妾で、下関裏町の芸妓・おうのです。おうのは高杉晋作の死後の1881年(明治14年)に曹洞宗(そうとうしゅう)大本山・永平寺(えいへいじ)貫主・久我環渓禅師(こがかんけいぜんじ)から得度を受け、梅処(ばいしょ・谷梅処)と称し、高杉晋作の眠るこの地で菩提を弔いながら余生を過ごしました。東行庵は白衣観音菩薩を本尊として祀り、仏壇に高杉晋作とともに山縣有朋の位牌を安置しいます。東行庵には高杉晋作が愛した梅の木約200本(紅梅・白梅)が植えられています。ちなみに高杉晋作は梅を愛し、長男に梅之進と名付け、愛妾・おうのに銘「梅處」の自作の茶杓を贈りました。
下関市(しものせきし)は山口県西部に位置しています。下関市は山口県内で県庁所在地である山口市よりも人口が多く、中国地方でも広島市・岡山市・倉敷市・福山市に次いで5番目に人口が多い都市です。下関市は長門市・美祢市・山陽小野田市、関門海峡を挟んで福岡県の北九州市に接しています。北九州市とは関門トンネルによって結ばれています。下関市は山口県最西端、かつ本州最西端にあり、西側を日本海の響灘(ひびきなだ)・南側を瀬戸内海の周防灘(すおうなだ)に面し、海上に彦島(ひこしま)・角島(つのしま)・蓋井島(ふたおいじま)・六連島(むつれじま)などが浮かんでいます。下関市は古来から陸海の交通の要衝で、室町時代に赤間関(あかまがせき・赤馬関)が大内氏の勘合船貿易の港町として栄え、江戸時代には北前船(西廻り航路)の経由地になり、長崎と並ぶ商港として西の浪華(なにわ)とも言われました。明治時代以降に九州や大陸(朝鮮半島・中国大陸)を結ぶ交通の中心地として発展しました。また下関市は遠洋漁業の基地にもなり、造船・漁具・水産加工など漁業関連の工業が発展しました。
*参考・・・東行庵(アクセス・歴史・・・)ホームページ

【東行庵 見どころ・文化財】
東行庵の見どころは東行庵の梅です。東行庵の梅見ごろは例年2月中旬頃~3月中旬頃です。
梅は桜と同じバラ目バラ科サクラ属の落葉樹で、開花の仕組みがよく似ています。梅は花の元となる花芽が前年の夏に形成されて休眠し、秋から冬に気温が低下すると休眠打破され、その後気温が上昇すると開花に向かって生長し、1月頃から開花します。

【東行庵 連絡先(要確認)】
電話番号・・・083-284-0211(東行庵)

【東行庵 備考(御朱印・その他・・・)】
最終更新日:2021年(令和3年)11月

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