石見銀山(アクセス・歴史・・・)・世界遺産

石見銀山

石見銀山

石見銀山(アクセス・概要・見どころ・・・)情報を紹介しています。石見銀山は戦国時代後期から江戸時代前期に最盛期を迎えた日本最大の銀山で、江戸時代には兵庫・生野銀山と並ぶ地位を占めました。ちなみに最盛期、日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも言われ、石見銀山でも江戸時代前期の1602年(慶長7年)には年産15トン(4千貫)の銀を産出したとされています。

【石見銀山 アクセスマップ】
場所・・・島根県大田市大森町

【石見銀山 アクセス・交通】
*JR大田市駅から石見交通バス・世界遺産センター方面の場合、大森代官所跡バス停・大森バス停・世界遺産センターバス停

【石見銀山 アクセス・駐車場】
駐車場なし

【石見銀山 時間(要確認)】
9:00~17:00(3/1~11/30)
9:00~16:00(12/1~2/末日)
1月1日は休日

【石見銀山 料金(要確認)】
個人
大人410円、小人200円

団体
大人300円、小人150円

【石見銀山 歴史・簡単概要】
石見銀山(いわみぎんざん)・石見銀山遺跡は島根県大田市大森にあり、鉱脈は周辺の大田市仁摩町・大田市温泉津町にも広がっていました。石見銀山は「石見銀山旧記(江戸時代)」によると鎌倉時代末期の1309年(延慶2年)に石見を訪れた山口周防の武将で、大内氏第8代当主・大内弘幸(おおうちひろゆき)が北斗妙見大菩薩(北極星)の託宣によって発見したとも言われています。石見銀山では鎌倉時代末期頃までに露天掘りが行われていたとも言われています。その後南北朝時代に室町幕府初代将軍・足利尊氏のご落胤・足利直冬(あしかがただふゆ)が石見銀山を手に入れて露出した銀を採り尽くしたと言われています。1526年(大永6年)に博多の商人・神谷寿亭(かみやじゅてい)が海上から山が光るのを見て銀山を発見し、大内氏第30代当主・大内義興(おおうちよしおき)の支援と出雲田儀村の銅山主・三島清右衛門(みしませいえもん)の協力によって銀峯山(ぎんぶせん)中腹の地下から銀を掘り出し、1533年(天文2年)には灰吹法(はいふきほう)による銀精錬が始まりました。石見銀山は室町時代から戦国時代に大内氏(おおうちし)・小笠原氏(おがさわらし)・毛利氏(もうりし)・尼子氏などが争奪戦を繰り広げ、桃山時代に関白・豊臣秀吉と毛利氏の共同管理になり、1600年(慶長5年)の関ケ原の戦い以後は全国の鉱山と同じように江戸幕府の直轄地(天領)になり、1601年(慶長6年)には大久保長安(おおくぼながやす)が初代石見奉行になりました。1886年(明治19年)に藤田組大森鉱山が設立されて操業を開始し、1895年(明治28年)に清水谷製錬所が完成したが、銀ではなく銅生産が主力になり、1923年(大正12年)の銅相場低下によって休山になり、その後戦時中に銅の再産出を試みるが、1943年(昭和18年)の水害によって坑道が水没したことから完全閉山になりました。なお石見銀山は1969年(昭和44年)に国の史跡に指定され、1987年(昭和62年)には大森銀山地区の町並みが重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
石見銀山は2007年(平成19年)に世界遺産条約により、ユネスコ世界文化遺産(石見銀山遺跡とその文化的景観)に登録されました。
*参考・・・石見銀山(アクセス・歴史・・・)ホームページ

【石見銀山 見どころ・文化財】
石見銀山の見どころは常時公開されている坑道・龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)です。龍源寺間歩は大久保間歩(おおくぼまぶ)に次いで長さ約600メートルあり、また排水の為に垂直に約100メートルも掘られた竪坑もあります。龍源寺間歩は1715年(正徳5年)に開発され、大久保間歩・永久間歩・新切間歩・新横相間歩とともに代官所の直営で、五か山と言われました。なお江戸時代の武家・商家の旧宅や社寺などの大森銀山重要伝統的建造物群保存地区も見どころです。

【石見銀山 連絡先(要確認)】
電話番号・・・0854-82-1600(大田市観光振興課)

【石見銀山 備考(御朱印・その他・・・)】
最終更新日:2021年(令和3年)11月

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